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宇都宮義真 手記

Yoshima Utsunomiya's note

宇都宮義真は戦争から復員し、厳しい状況のなか、健康維持への情熱と勇気をもって、サナモア普及のため幾多の試練に立ち向かい、当社の礎を築きました。 当時の世相や苦労を、ほぼ原文のままの状態で宇都宮義真の手記を公開致します。 その熱き思いを感じ取って頂ければ幸いです。

昭和7年10月22日

札幌より病弱の長男義和、長女ヤエコと、生まれたばかりの次男正行をつれて上京した。H氏のすすめによるものであるが無職であった。僕はどんなに困っても泣き言を言ったことは一度もないが、人には分かると見えて僕の懐中時計の金鎖が何時なくなるかと、友人たちは話していたそうである。

 

仕事を探しながらも義和の病気(脳性小児麻痺)のことは片時も忘れることはなく、何かよい治療法はないかと思っていたが、ある日偶然電車の中から築地で光線療法の看板を見たので行ってみた。経営者は魚市場の支配人Ⅰ氏であったが、大きなレンズで自然太陽光線を集光して行う治療であった。不思議な縁というか、この器械は北海道伊達町の義兄敬徳がカリエスの治療に用いているのと同じものであった。

 

この器械の発明者は大阪の沢田暁夢氏で、Ⅰ氏は自分が目の病で失明しかけたのがこの器械で治ったので、人助けのために治療所を開設したそうである。

 

その後、H氏の友人が日本橋小網町の玉屋という病人宿の女主人の世話になって何か事業を計画しているとの事を聞き、訪ねたところ、又偶然光線療法と関係ができたのである。

 

K氏がこの旅館に泊まっていて、僕が前に行ったことのあるⅠ氏の発明したカーボン灯の外交をしていたのである。

K氏は玉屋の一階の奥の薄暗い四畳半の居室で、そこの角に三角形にカーテンを張り座布団を2、3枚敷き、近所の老人たちを集めて治療をしていた。

昭和7年11月

僕は早速スタンド型を一台求めて義和の治療をしたが、その卓越した治療効果に感銘を受け、生涯の業とすることを心に決めた。

ここに東京光線療法研究所は誕生する。

昭和8年5月

僕は光線治療所を開く決心をして芝の白金台町に借家を見付けて移転したが、治療器は正面自動接近式の高級品を荒井製作所に作らせた。

 

アメリカのエバルディカーボンは芯が太いため、側面式では芯がこぼれて完全燃焼せず、正面式の方がよく燃えてよい光が出るためであった。

 

カーボンは当初ドイツのシーメンス社のものを使用したが、白青社のS氏と知り合いになり、同社にドイツのコンラージ社製カーボンを輸入して貰うことにした。

白青社は揖斐川電気会社の代理店であった。

 

創業当時の大恩人、F氏が勤めるG電気会社のビルには電力会社が数社あり、僕が行くと給仕を走らせて各社の幹部を集めて宣伝してくれた。

また、政財界の有力者にも紹介してくれたから、僕の得意先は断然上層階級に多かった。

昭和9年

光線療法普及協会┃会報誌「光線」第1号

光線療法の機関紙「光線」(現在、東京光線メディカルが発行する機関紙「健康と光線」の前進)第1号を1月15日に刊行。

昭和10年

僕の白金台町の家は、東京建物会社からの借家で二階建てであった。

そこで、三男光明が生まれ、長男義和と長女ヤエコは、幼稚園に通うようになっていた。

段々と事業も発展して来たので、隣に建つ同じ大きさの家が空家になった際にそれも借りることにした。

ちょうどその頃、樺太、北海道で仕事をしていたO氏が来たので採用した。

 

其所に住んでいる時に二・二六事件が起きて、朝早くF氏から丸ノ内附近で何か大異変が起きているようだと電話が来た。

当時の電話の権利は、家屋一軒の値段と同じ位であったと記憶している。

二・二六事件

昭和11年

大体事業の見とおしもついたので芝二本榎に移転した。

建坪は80坪で、二階に八畳の部屋が三室あり、階下の事務室も玄関も相当広く、便所も階上と階下にあった。

従業員も数人となり、女中も二人か三人のこともあった。

二本榎で次女ヨシコが生まれた。

光線療法普及協会┃東京光線療法研究所社屋前にて

昭和13年

11月版 家庭雑誌「通俗醫學」に掲載。

光線療法普及協会┃東京光線療法研究所「通俗醫學」掲載広告

東京光線療法研究所(現・東京光線メディカル)として広告を掲載

光線療法普及協会┃光線療法「通俗醫學」記事

海外の光線療法も掲載されていた。

昭和16年10月

本多秀貫博士と知り合いになったのは、未だ白金台町に居た頃である。

 

本多博士の患者W氏の結核が光線療法で非常によくなったので驚いた本多博士からW氏を介して面会を申し込まれ、こちらから訪問して僕の考えを説明した結果、その後永らく協力を得られた。

 

未だマイシンなどの結核に有効な薬が開発される前である。

素人ばかりの集団に医師が一人加わったことは何かと有利であった。

本多博士は戦中に四国の高松に移転し開業していたので、僕は九州に行く途中に一度訪問して歓待を受けた。

その後も一度訪問したいと思いながらも、果たさないうちに加齢でお亡くなりになられた。

 

僕は光線療法については、殆ど知識がなく信念だけが先行していた。

各方面の専門家と思われる人々に指導を乞うたが、ほとんど得るところはなかった。

やはり自分のやりたいことは、自分で研究する以外にないことを痛感した。

僕はやむを得ず新聞、雑誌の隅々にまで何か参考になる事はないかとさがした。

ある日、書店で理化学研究所の二神博士の「紫外線・赤外線」という著書を発見した時の喜びは何ものにも例える事ができなかった。

早速、K氏にも知らせて二人で理化学研究所を訪問して、二神博士に常温室の実験等を見せてもらった。

その後、揖斐川電気株式会社で医療用カーボンを試作した時には二神博士に光電管を応用した光線測定器を作ってもらって非常に役に立った。

それまで医療用カーボンは専ら外国品だけであったが万一の場合も考えて国産に切りかえたいと思った。

幸いに東邦電力会社の重役Y氏の紹介で揖斐川電気株式会社に作らせることにした。

 

そして工場長(後に監査役)N氏と協力して数種類を試作して東京市電気試験所で不完全ながらスペクトル写真をとった。

 

その後、東法電極、マツダ(秋田電工)、藤岡(シルズゾーン)でと医療用カーボンを作ったが販売網がないために成功せず中止した。

その頃、白青社のS氏の世話で炭素工業会を作って参加したが竜頭蛇尾に終わった。

昭和17年

戦時下には陸海軍の強制でサーチライト用カーボン以外の製造を禁止されていたが、特に願い出て医療用カーボンだけは黙認してもらった。

朝鮮窒素会社でも、終戦まで医療用カーボンを製造しており、K氏が取り扱っていた。

その頃、元特許局長官S氏と親しくなり、その方の勧めでカーボンを商標登録しておくことになった。

 

僕は“サナモア”(sanamoi 戦後はsanamore)で登録した。

事務員は4〜5人居たが、主任はR氏(元警察官)が務め、その後はZ氏が僕の召集後まで居た。

有楽町の東京都電気奨励館にサナモアを陳列販売するために係としてS氏を派遣した。光線治療師を養成するために、毎日午後五時から八時まで講習を行ったが大抵深夜までかかった。

 

また昭和9年頃より、光線療法は医師法違反であるという事で一度許可したものまで療業届を出すことを強要されたため、これに反対して戦った。

その当時は未だ保健所も厚生省もなく、取り締まりは内務省衛生局→警視庁→警察署であったからすこぶるきびしいものであった。

反対運動を強力に進めるために日本治療師会(全療協の前身)に参加した。

 

著書として「光線療法提要」「病気は光線で治せ」「光線医学」等を発行した。日本橋の大成商会の取り扱いで、南米チリ国に相当輸出した。

支那、満州、朝鮮、台湾、フィリピンにも輸出していた。

戦争の長期化で経済統制はきびしくなり、資材の配給は段々少なくなり、ヤミが横行し価格は9.18停止令でおさえられた。

 

やがて輸出も統制となり、電気機器輸出組合ができ、後に大東亜共栄圏生活必需品輸出組合連合会となり、前年度の実績により輸出を許可されることになった。

 

揖斐川電気会社に営業課長としてZ氏が着任して(後に社長)改革を行い、医療用カーボンを安宅療会にも取り扱わせることになり、僕としては成功の可能性のないことは分かっていたので黙認したがやはり成功しなかった。

荒井製作所もカーボン灯の直接販売を試みたが、これも失敗に終わった。

 

その後、荒井製作所は経営ができなくなりK氏が引き受けた。

光線療法普及協会┃サナモアカーボン
光線療法普及協会┃サナモアカーボン

昭和19年

僕は昭和19年6月に召集されて万事休した。

僕の出征後、戦況は益々不利になり、妻の寿々代は遂に小さい子供五人を連れて九州に疎開した。

一通りの苦労ではなかったと思う。

昭和21年

僕は昭和21年6月に幸いにして無事に復員した。

相当持っていた預金も封鎖されて一か月に世帯主300円、家族一人100円しか引き出せず、無職で収入はなく、衣食住ともになく、これからどうして生活するか全く当てもなく、一生でこんなに困ったことはなかった。

何とかして東京に戻りたいと思って、東京と九州の間を何度も往復した。

多少でも収入を得るために寿々代は治療所を開業した。

昭和22年

翌年の2月、遂に大井滝王子に八畳の部屋を間借りすることができ僕は単身上京。

とにかく東京に一歩を踏み入れることができた。

そしてヤエコと正行だけを連れて来た。

昭和23年12月

それから大井森下町に小さな家を20万円で買って、家族全員が東京に集まるまでは血の出る苦しみであった。

とにかく戦前の事業を復活するしかないと決心はしたものの何処から手をつけてよいか分からない、東京は未だ焼け野原であった。

僕の事業は出征中に完全に全滅したが、K氏は細々ながら続けていたので復興も容易であった。

昭和29年10月

揖斐川電気会社にカーボン製造再開の交渉に行った時、S氏より、戦後間もなく、他社からカーボン製造の申し込みが来たが断った旨を聞かされた。

戦後は従前の複雑なもの(自動装置)をやめて、最も簡単な7号器(支柱式)と8号器(卓上式)の2種類にしぼった。

戦前は実用新案が十数件あったが、戦後改めて二件(投影板装置、排気孔装置)をとった。

光線療法普及協会┃サナモア光線治療器 8号
光線療法普及協会┃サナモア光線治療器 7号

昭和51年1月

僕は株式会社組織にした。

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